文政五年、村上藩は金蔵坂堀割費用の返済を免除し、全額藩で負担することを伝えた。また堀割の完成によって、排水が良好となり、潟縁の荒地場の起こし返しも相当出来たとして、検地を行うこととして、木場村庄屋山際七兵衛、板井村庄屋伝左衛門、黒鳥村庄屋利左衛門、北場村庄屋太左衛門ほか六名を、地直方引受に任命し、さらに総代として茨島村宇左衛門をくわえ、相談役に茨曽根組大庄屋関根文助を任命した。文政四年から文政六年までの三年間、鍬下年季として開発地の年貢を免除し、文政七年より課税することとした。文政七年黒鳥村では新川開削の影響で、高所の田に懸水が必要となったため、木場村懸樋組への参加を申し入れた。この年、黒鳥村では作付けの出来る土地にもかかわらず、開墾すべき土地にも手入れをせず放置する者が多かった。そのため三条代官牧大助、横目長谷川伝七が出張し、干上がり地の開発について、村々からの計画書を提出つせた。黒鳥村では浦潟、徳人潟の干上がり地五六町余の開発を八カ年計画で行うこととし、一か年あたり七町七反余を一〇三軒に割付、一軒あたり七畝一五歩ずつとした。この土地の開発については農立て前にとりかかり、土砂をかきあげ畦を作り田とすることになっていた。