文政一〇年、巻組一三か村は早通川の掘り拡げを再度願い出た。幕府は安永八年に長岡領とした三潟水面三六七石余を、本来開発が行われれば幕僚となるべき場所であり、開発するのも困難であるため上知し、沼高にくい込みを入れるとして、当時引き換えに幕僚とした横山外新田ほか四か新田において、三六七石余を長岡藩へ戻す事とした。長岡藩は新川開削にあたり、文化一四年に曽根組願人へ引渡した三潟水面を、潟組三七か村の管理に帰属させることとした。潟組では総代を江戸へ派遣し、従来どおり潟組で三潟を用益できるよう願い出たが、調査の上で処分を決めるべきであるとして却下された。出雲崎代官野田斧吉が三潟仮受け取りの為現地調査を行った。三潟の上知により同年暮れ巻組一三か村が願い出ていた早通川掘り拡げは不許可となり願書はさしもどされた。村上藩は三条役所において、金蔵坂掘削の完成後、田畑の地味もよくなったとして、年貢を課する旨を言い渡した。