平和村へ移った代官一行は、堀割予定地の測量を行った。長岡藩では、平島堀割に反対する新潟町と、平島村堀割でなければ三潟水抜き工事は引き受けられないとする潟組との調整に腐心していた。もし潟組が水抜き工事を辞退すれば、三潟の開発を他領願人の手にゆだねることにもなりかねないため、新潟町へ、内野の新川改修工事で妥協するよう説得を重ねた。新潟町では、潟組が新川改修工事を承諾する前に妥協しては、今後の交渉が不利になるとし、納得しなかった。藩は潟組へ対しても平島村堀割をあきらめ、新川改修工事を行うよう説得した。潟組は平島村堀割にかえて、新通村大水門の脇で西川に底樋を伏せ、坂井輪郷内を堀割、平島村から西側の青山村稲荷堂の南から海への堀割を掘削する計画を出雲崎役所へ提出した。長岡藩、村上藩から出雲崎代官所へ文政一二年に上知命令のあった三潟水面が正式に引渡された。ただし、三潟の用益は従来どおり長岡領潟組三七か村で行う事とされた。