勘定吟味役らによる調査中、曽根村はじめ数か村の百姓らは、明田村の西川土手へ集結し、曽根組の水抜き工事引き受けに反対して騒ぎたてた。このため曽根組二八か村では、再度工事の引き受け辞退を願い出た。早通川の改修工事を切望していた巻組は、水抜き工事を引き受けるよう曽根組と交渉し、了解をとりつけた。本年度の工事は猶予とし、翌年の雪が消えしだい三七か村で水抜き工事にとりかかりたいとの書面を、三七か村総代巻、曽根両組割元、庄屋一一名の連名で、江戸から出張の普請役へ提出した。長岡領三七か村と村上領一五か村の間で、翌年から三年間農作業の合間に、村上領から水抜き工事へ加勢人足八万五千人をだすことをとりきめた。人足をだせない場合は、一人一日八〇文の割合で、貸金を出すことした。さきに三七か村の総代として、巻、曽根両組割元、庄屋一一名が名をつらねていたものを、今後は、巻組割元、庄屋六名で総代をつとめると、出雲代官所へ届け出、名実ともに巻組九か村割元、庄屋六名を引き受ける工事となった。