村上領一五か村は三潟水抜き工事の担当工区を割り当てられ、工事にとりかかった。潟組では西川の迂回工事を行い、底樋設置場所を掘り込み、底樋を設置するための地杭を打ち始め、底樋の一門の設置が完了した。その後もう一門も完成した。この年は全国的な飢饉となり物価は高騰し、工事人足の賃銭も一人一日八〇文のはずが、三倍の二四〇文にまで達し、工事資金も底をついた。そのため、潟組では七月と八月の二回にわたり、底樋上流の掘り拡げ工事の本年度猶予を願い出たが却下され、借り入れにより資金を調達し九月下旬に工事を終了した。天保五年潟組三七か村は凶作のため工事の猶予願いを提出していたが、出雲崎代官所からの説得により、村上領一五か村とともに底樋から高山村往還橋まで、一七〇間余の距離を幅一〇間、深さ九尺に割掘る工事のみを引き受けることとし、それ以外の工事は猶予された。天保五年分の工事は、四月中旬から始められ、七月中には完成した。