巻組三潟開発

巻組庄屋らによる三潟の開発計画は、天保七年から一一年までの五年間を鍬下年季とし、一二年に検地をうけ高入れとなるものであったが、天保七年に六月に完了した水抜き工事の効果は期待したほどではなく、三潟の水位は下がらなかった。また同年夏の雨による出水のため、幅六間の双領樋が破損してしまった。六人は新田開発の見込みがないと判断し、三潟の用益権を放棄しようとまで考え、新田開発工事の辞退を願い出た。出雲崎代官所からの申し渡しにより、引き続き開発工事にあたることとなったが、天保九年までの開発猶予を願い出て、天保九年に許可となった。天保一〇年から一四年までを鍬下年季とし、天保一五年に検地をうけ高入れとなる計画であった。天保一〇年は開発に取り掛かる年であったが、二月に三潟の開発の見込みないとして新田開発の中止を、出雲崎代官所へ願い出た。願いは許可されなかったが、再度開発猶予を願い出て許可された。この猶予願いは、天保一四年、弘化五年と繰り返し提出され、開発はいっこうに進展しなかった。

巻組三潟開発