文久二年二月、木場村で中之口川の堤防が決壊し、濁流は三潟願人樋を破壊した。潤八月には再度木場村で破壊し、田潟、大潟一円堪水し、底樋五門がいずれも大破した。元治元年八月に月潟村の堤防が決壊した際、内野村川原囲がくずれ、新川へ砂が流入して浅瀬となってしまった。慶応元年閏五月に曲通村堤防が決壊した際には、村上領樋が破損した。相次ぐ中之口川の出水による破損で、底樋の排水能力は低下し、三潟は金蔵坂を掘り割る以前の状態にもどってしまった。慶応二年、水原代官は三条へ手代を派遣し、長岡藩郡奉行、村上藩三条代官および三潟周辺村々の総代を呼び出し、底樋の修理について協議させた。翌慶応三年、底樋の修理について、長岡領、村上領、三潟開発人、会津領、幕領村々の間で取り決め書が作成された。工事費は長岡領、村上領の折半とし、底樋五門を撤去し新しい底樋ととりかえることとした。西川を地蔵堂でしめきり、水量をへらし、底樋敷設箇所から二〇間上流の地点で、八間に渡り西川を閉める工事を行い、そこから西川を新川へ切り落とした。三潟願人樋二門、双領樋一門は長さ三六間幅三間、高さ六尺のものに伏せ替えられた。新川は排水機能を取り戻した。