享保一八年、新発田藩は領内諸河川の渡し賃を定めた。信濃川、阿賀野川では、人は一〇文、馬は一五文。小阿賀野川、五十嵐川、中之口川では人三文、馬五文。笠巻川では人二文、馬三文であった。渡し舟は、橋を架けられない河川では、重要な交通手段であり、船頭への給米の付与や渡し賃の公定などといった領主の保護、統制を受けていた。寺地の渡し守は周辺の村々から繋ぎ米を徴収し、渡し賃をとらずに運行していた。享保一〇年、食料難の新発田領中之口組八か村一一一七人、鳥原、鷲木の渡し守らは藩への手当ての支給を求めた。中之口川沿いの数十か村および横越島の村々から繋ぎ米をあつめて、渡し舟を運行していた寺地の渡し守は、この年の凶作により周辺村々から繋ぎ米が確保できなかった。天保四年には、前年長岡領平島村が新規に始めた渡し舟について、新発田領寺地村渡し守が差し止めを求め、長岡藩新潟役所へ願い出るということがあった。前年には村上領小新村の渡し守五兵衛と名兵衛が、同様に平島村の渡し舟について差し止めを求めていた。