渡し場

新十郎は平島村に移住し、鳥屋野への渡し舟を運行していた。ところが、信濃川、西川の合流部分で水流が滞り、付州ができ、平島から鳥屋野へ直接渡る事ができなくなってしまった。そのため付州へ仮小屋を建てて信濃川、西川ともに渡し船を運行していた。その後寺地へ渡った新十郎の家から五郎兵を分家させ、小新村の西川前で渡し船を運行させた。また、小新村の渡し場では先代代の殿から判物と馬舟をいただき、五兵衛、名兵衛の両名で渡し舟を運行してきた。近郷村々からの繋米は新十郎方へ集め、新十郎与吉、五兵衛で三分してきたというのである。新発田藩の雑税賦課簿によると、平島への渡し舟は、延宝元年に設けたとある。延宝七年の鳥原村検地帳によれば新十郎と与吉も屋敷地は所有していなかったので地域には人が住んでいなかった可能性が高い。その後享保一〇年には渡し守として記録にみえるので、この四〇年の間に移住したと考えられる。

渡し場